生きていくのに不要なものの価値が高いという不都合な事実
この世に生きていくために必要な衣食住。
衣食住はネットでも安いのに溢れているし、探せば無料で手に入る環境がある。
つまり、社会の目を気にしなければ、衣食住にはお金がかからないまたはものすごく安く生活できるようになっている。
なので、今お金は普段生活には必要がないものが値段が高くなっている。
ブランド品、広告、SNS、ネット、プログラミングなど。
あれば世の中が楽になるけれど、無くてもよいもの。今まではなかったものの単価がものすごく高い。
そして、お金だけの世界でみれば、お金の価値、意味がよくわからない世の中になっている。
寝ていても、働かなくても、私たちの想像を超えるお金が入ってくる人がいれば、1日中働いてもその日暮らしの生活しかできない人。
お金の単位もおかしくなっていて、その単位のお金はその人にとってどんな価値があるものなのか。
お金という存在が本当に必要なのかどうか、生きていくなかで、自分の幸せとはお金だけではないのではないかと考えさせられる。
自分の幸せをお金と切り離して考えて、お金は自分の必要な額を把握して、その金額を手に入れることができる環境にいれば、お金にとらわれなくてもいいのではないか。
お金だけで幸せを求めようとすると、先ほど言った寝ていても、働かなくても莫大なお金が入ってくる人たちの存在がうらやましく、その人たちになりたいという願望がでてくる。
本来、お金とは物と物の交代の手段として産まれた発明品であって、お金だけを求めて生活していると本来のお金の目的から外れていくと私夫(H)は考えています。
私夫(H)もお金に振り回されて、お金があれば人生がうまくいくとお金、お金と職業と生活を選んでいたのですが、それが幸せかと聞かれたら、今思えば不安を埋めるために稼いでいた感じがします。
かと、いってお金がいらないわけでもないし、生活にお金が必要ないと言いたいわけではない。
お金は必要ですし、生活を豊かにするにはお金がかかります。
しかし、お金を幸せの基準にしてしまうと、幸せというか人生の幸福が訪れることが永久にくるのかわからない。
自分なりの幸せを見つけて、例えば家族と恋人と過ごす時間、趣味に没頭する時間など。
その時間が手に入るぐらいのお金があればそれ以上を目指す必要はないのではないか。
その自分の基準がないと身近な人の年収やネットでの億万長者のお金ばかりと比較して、自分の年収はこれっぽっち=幸せではない。となっていないか。私夫(H)はなっていた時期があります。
今は自分なりの基準を設けて、その幸せのためのお金があれば後は好きなことを重点において、家族と過ごしたり、新しいことに挑戦してみたりしています。
最低限の金額を間違えると、生活がかつかつなってしまうので、多めに見積もることをお勧めしますが、今の生活の方が自分夫(H)は楽しいです。
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